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西加奈子「ふくわらい」

西加奈子の「ふくわらい」を読んだ。

西加奈子の作品は以前「窓の魚」を読んだことがある。
変にハイテンションな小説が苦手で、あと飾り付けた文体も苦手なので、
西加奈子を読んでみたいと思って本屋に行って、シンプルそうで暗そうなやつを選んだ結果の「窓の魚」。
展開が面白くて読みやすく、印象も強く残って、スゴい力のある作家だなと思ったけど、
私の趣味として、やはり少しうるさいというか、演出が過ぎる印象というか。。
うまく言えないのだけど。
嫌いではないけど大好きでもないという感じ。
で、そんな印象からあまり期待せずに読み出した「ふくわらい」、


抜群だった。

はっきりと説明できない感情が、いい塩梅に残って、
図書館で借りて読んだのだけど、買って手元に置いておきたいと思っている。
久々に面白い小説を読んだと思った。


一度読んだ後、キーになるシーンを読み返して咀嚼した。
「ああこれは、自我の発見の象徴なのだな」とか、
自分の中で言葉にまとめて納得しようとした。
言葉にできない何かがたくさん残ったので、それをクリアにしようと思った。
けど。
そんなことをしながら、ふと思い返した。


私は国語の授業で教えてもらう、小説の読み取り方、
例えば「なぜ主人公はこう思ったか」ということを先生主導のもと紐解き、
学期末にテストされるというのが、子どもの頃、とても嫌いで、母に苦情を言ったことがある。

そこに正解なんて無いはずなのに、おかしい、と。

確かに、今思えば、
文章から登場人物や筆者の気持ちを読み解く訓練は必要で、
それは本を読むということに限らず、社会生活の上でもとても大切な授業だったのだけど。

でも私は、
小説の一部分から「なぜ主人公はこう思ったか」に正解しようとする時、
それを自分の言葉に簡潔にまとめていく中に、
本来小説の中あったはずの、とても繊細で、もっとも大切な物語が、時間が、抜け落ちてしまう感覚があって、
とても嫌だったのだ。

本が好きだった自分は、そんな「正解」を考えずに、
ただ本の中にある世界に没頭していたかった。
そこには正解とか、意味すらなくて、他者との時間と空間の共有の中で、
自分がいる景色が、自分自身さえ全く違うものになっていく感覚が好きだった。
日常と違って、誰かに、何かを求められたり、制約されたりしない。


国語の授業で「正解」を中心に考える時、求められるのは文章を客観的に読み解き、簡潔に正解を述べる力。
その訓練を重ねていく中で、私は失っていく気がした。
作家の意図、文章を読み解く技術、皆と同じ回答を出さなければいけない空気、そういう意識をもってしまう自分、作家の名前、その人が著名な人であること、なんにも知らないで、ただ目の前の文字に没頭する、そういう風に本を読んでいたかった。

国語の授業の中で訓練を繰り返していくと、どうしようもなく、
もう知らなかった自分には戻れなくなっていく。
無知を恥じず物語に没頭できた自分はいなくなる。
その感覚が悲しかった。


西加奈子が「ふくわらい」の中で、長い時間をかけて丁寧につむいだ世界を、
「自我の発見の象徴」だ、なんて納得してしまうことは、悲しい。
物語の中で感じていた空気や時間に、意味をもたせてしまうことは虚しい。

物語が大好きで、大切にしていた自分を思い出して、
途中で「解説」を考えるのをやめた。

まだ完全に自分の中で、「ふくわらい」の解釈は落ち着いていないので、
この本がくれた興奮は、しばらく私の生活を支配すると思う。
なんども思い返しながら自分のものにしていきたい。
安易な言葉に決着させようとしないで。



正直に言って、
私はアート作品をみて、
小説みたいに、自我を失うほど没頭できる世界に出会ったことはない。


私が、映像を作ったり見たりする中で、
それが語る表面上のストーリー(物語)はどうでもよいと思っている。
文字の力には、敵わないからだ。
ストーリーを説明することに終始したいのなら、文字で書けばいい。
文字というものは、何もないところからストーリーを作り、そのうえ無限の時間や空間を作り出す、不可解なくらいに素晴らしい力がある。
映像がもつ力はそれじゃない。

そして、
私が作る作品のコンセプト(意味)は、
理解してもらえなくても、全然構わない。
空間と時間の共有さえできたら。

もちろんコンセプトの説明を求められれば、するし、そういう局面は多い。
仕方なくやっているというのでなく、
客観的に自分の作品を観察するためにも、
言葉で簡潔に説明することも、アーティストにとって大切な作業だからやっていく。
これからもこういう作業に、作品を作る以上の、たくさん時間を割かなくてはいけないだろう。


でも一方で、
私は感覚的な共有を一番大切にしていたい。
というか、そういう興奮が出発点にある。
その純粋な感覚を忘れてしまわないだろうか。

「正解」の説明ばかり考えていると、
言葉尻を合わせて、たとえ相手を上手に納得させられても、
結局、私自身もそれに引きずられて、本質が全然見えなくなっていく。
言葉にできないものは、驚くくらいに忘れていく。


「ふくわらい」を読んで、
すごく大切な、純粋な感覚を思い出すことができて、よかった。
つまり私は本が、物語が大好きなんだった!


奇しくも、「ふくわらい」を読む少し前に、
自分が中学生の時に書いていた、絵本向けの物語をふと思い返していた。
その他にも昔、いくつかの物語を書いた。
誰かのまねごとのようなお話で大したものではなかったけれど、思い入れだけあった。
また、何か書こうかなと思っている。
今ならもっと書ける気がする。
最近やりたいことがたくさん出てきて困る。



ちなみに「ふくわらい」を図書館で借りたとき、一緒に、
ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」と
ハイデガー「存在と時間」を借りた。
実は「ふくわらい」はこの二冊を読むのが辛くなったときの、息抜き用(おまけ)。

「ツァラトゥストラかく語りき」は、はっきり言って全然趣味じゃなくて読むのが苦痛だった。全体的に言いたいことの表面をなぞることや、部分的にオッと思うことはできるけど、宗教観とかジェンダーの価値観とか時代とか、そもそも言語が違う(詩が多用されている)中で、あれが感覚的に本質的に理解できる日本人っているのかなって、疑問。

ハイデガーの方が面白そうなので期待。
ただし私には難解すぎて読むのに時間が掛かる上に、上下巻あるので、とても大変な予感。
まだ20ページも進んでない。
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