HIKINO MAHO--blog




 
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2018年 展示のお知らせ

2018年は、私が主催するアーティストコレクティブART BEASITESで、2回の展覧会があります。

"IN THE SHADOW OF OLMPUS"
2018年3月1日(木)- 31日(木)
Opening Reception March 1st, 6-8pm
at SOIL Gallery (Seattle)
http://artbeasties.com/next-event-info/

私も今月末から10日間ほど渡米します。
「東京オリンピック」という、私個人ではとても考えないようなテーマの中で、作品のプランや意図を考えるのはとても難しいことでしたが、考え抜いていくうちに、それが自分の問題に帰着してストンと落ちてくる感覚はとても新鮮で、グループの面白さを感じました。


都美セレクション グループ展2018
"蝶の羽ばたき Time Difference 時差 vol.3 New York-Seattle-London-Tokyo"
2018年6月9日(土)- 7月1日(日)
at 東京都美術館 Tokyo Metropolitan Art Museum
http://www.tobikan.jp/information/20171019_1.html

2年前にも挑戦してダメだった「都美セレクション グループ展」のコンペに再挑戦し、
展示の機会をいただくことができました。
決まった時は本当に嬉しかったなあ。
詳細はまたお知らせします。


ART BEASITESは運営4年になり、グループも、私自身も大きく成長してきました。
もちろん言い出したらきりがないほど問題点もいつも山積みですが、
元々私がやりたかったこと、そして今私がやらなければいけないことを、1番に考えていきたいと、最近改めて考えています。

グループ運営の能力が私にあるのかどうか分かりません。
いつも必死になりすぎてそればっかりに頭の中を支配されそうになりますが、
自分が本当にしたい表現が、何かに突き動かされるように形になっていくことは「最高の」興奮です。
本展が私にとって「最高の」展示になるよう、制作自体を大事にする一年にしたいです。
作品公開情報など。 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

西加奈子「ふくわらい」

西加奈子の「ふくわらい」を読んだ。

西加奈子の作品は以前「窓の魚」を読んだことがある。
変にハイテンションな小説が苦手で、あと飾り付けた文体も苦手なので、
西加奈子を読んでみたいと思って本屋に行って、シンプルそうで暗そうなやつを選んだ結果の「窓の魚」。
展開が面白くて読みやすく、印象も強く残って、スゴい力のある作家だなと思ったけど、
私の趣味として、やはり少しうるさいというか、演出が過ぎる印象というか。。
うまく言えないのだけど。
嫌いではないけど大好きでもないという感じ。
で、そんな印象からあまり期待せずに読み出した「ふくわらい」、


抜群だった。

はっきりと説明できない感情が、いい塩梅に残って、
図書館で借りて読んだのだけど、買って手元に置いておきたいと思っている。
久々に面白い小説を読んだと思った。


一度読んだ後、キーになるシーンを読み返して咀嚼した。
「ああこれは、自我の発見の象徴なのだな」とか、
自分の中で言葉にまとめて納得しようとした。
言葉にできない何かがたくさん残ったので、それをクリアにしようと思った。
けど。
そんなことをしながら、ふと思い返した。


私は国語の授業で教えてもらう、小説の読み取り方、
例えば「なぜ主人公はこう思ったか」ということを先生主導のもと紐解き、
学期末にテストされるというのが、子どもの頃、とても嫌いで、母に苦情を言ったことがある。

そこに正解なんて無いはずなのに、おかしい、と。

確かに、今思えば、
文章から登場人物や筆者の気持ちを読み解く訓練は必要で、
それは本を読むということに限らず、社会生活の上でもとても大切な授業だったのだけど。

でも私は、
小説の一部分から「なぜ主人公はこう思ったか」に正解しようとする時、
それを自分の言葉に簡潔にまとめていく中に、
本来小説の中あったはずの、とても繊細で、もっとも大切な物語が、時間が、抜け落ちてしまう感覚があって、
とても嫌だったのだ。

本が好きだった自分は、そんな「正解」を考えずに、
ただ本の中にある世界に没頭していたかった。
そこには正解とか、意味すらなくて、他者との時間と空間の共有の中で、
自分がいる景色が、自分自身さえ全く違うものになっていく感覚が好きだった。
日常と違って、誰かに、何かを求められたり、制約されたりしない。


国語の授業で「正解」を中心に考える時、求められるのは文章を客観的に読み解き、簡潔に正解を述べる力。
その訓練を重ねていく中で、私は失っていく気がした。
作家の意図、文章を読み解く技術、皆と同じ回答を出さなければいけない空気、そういう意識をもってしまう自分、作家の名前、その人が著名な人であること、なんにも知らないで、ただ目の前の文字に没頭する、そういう風に本を読んでいたかった。

国語の授業の中で訓練を繰り返していくと、どうしようもなく、
もう知らなかった自分には戻れなくなっていく。
無知を恥じず物語に没頭できた自分はいなくなる。
その感覚が悲しかった。


西加奈子が「ふくわらい」の中で、長い時間をかけて丁寧につむいだ世界を、
「自我の発見の象徴」だ、なんて納得してしまうことは、悲しい。
物語の中で感じていた空気や時間に、意味をもたせてしまうことは虚しい。

物語が大好きで、大切にしていた自分を思い出して、
途中で「解説」を考えるのをやめた。

まだ完全に自分の中で、「ふくわらい」の解釈は落ち着いていないので、
この本がくれた興奮は、しばらく私の生活を支配すると思う。
なんども思い返しながら自分のものにしていきたい。
安易な言葉に決着させようとしないで。



正直に言って、
私はアート作品をみて、
小説みたいに、自我を失うほど没頭できる世界に出会ったことはない。


私が、映像を作ったり見たりする中で、
それが語る表面上のストーリー(物語)はどうでもよいと思っている。
文字の力には、敵わないからだ。
ストーリーを説明することに終始したいのなら、文字で書けばいい。
文字というものは、何もないところからストーリーを作り、そのうえ無限の時間や空間を作り出す、不可解なくらいに素晴らしい力がある。
映像がもつ力はそれじゃない。

そして、
私が作る作品のコンセプト(意味)は、
理解してもらえなくても、全然構わない。
空間と時間の共有さえできたら。

もちろんコンセプトの説明を求められれば、するし、そういう局面は多い。
仕方なくやっているというのでなく、
客観的に自分の作品を観察するためにも、
言葉で簡潔に説明することも、アーティストにとって大切な作業だからやっていく。
これからもこういう作業に、作品を作る以上の、たくさん時間を割かなくてはいけないだろう。


でも一方で、
私は感覚的な共有を一番大切にしていたい。
というか、そういう興奮が出発点にある。
その純粋な感覚を忘れてしまわないだろうか。

「正解」の説明ばかり考えていると、
言葉尻を合わせて、たとえ相手を上手に納得させられても、
結局、私自身もそれに引きずられて、本質が全然見えなくなっていく。
言葉にできないものは、驚くくらいに忘れていく。


「ふくわらい」を読んで、
すごく大切な、純粋な感覚を思い出すことができて、よかった。
つまり私は本が、物語が大好きなんだった!


奇しくも、「ふくわらい」を読む少し前に、
自分が中学生の時に書いていた、絵本向けの物語をふと思い返していた。
その他にも昔、いくつかの物語を書いた。
誰かのまねごとのようなお話で大したものではなかったけれど、思い入れだけあった。
また、何か書こうかなと思っている。
今ならもっと書ける気がする。
最近やりたいことがたくさん出てきて困る。



ちなみに「ふくわらい」を図書館で借りたとき、一緒に、
ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」と
ハイデガー「存在と時間」を借りた。
実は「ふくわらい」はこの二冊を読むのが辛くなったときの、息抜き用(おまけ)。

「ツァラトゥストラかく語りき」は、はっきり言って全然趣味じゃなくて読むのが苦痛だった。全体的に言いたいことの表面をなぞることや、部分的にオッと思うことはできるけど、宗教観とかジェンダーの価値観とか時代とか、そもそも言語が違う(詩が多用されている)中で、あれが感覚的に本質的に理解できる日本人っているのかなって、疑問。

ハイデガーの方が面白そうなので期待。
ただし私には難解すぎて読むのに時間が掛かる上に、上下巻あるので、とても大変な予感。
まだ20ページも進んでない。
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もう一回

先週末は大学のサークル同回だった友達の結婚パーティーで、岡山に行きました。
岡山にはこの前の秋にも行ったのですが、本当にいい街です。
なにがあるわけではないけど、本当にいい街。
少し早めに着いたので、朝からひとりで後楽園を散歩しました。

そして結局集合時間に遅刻スレスレ、久々に会う同回の前に猛ダッシュ後の汗だくの姿で現れる、相変わらずさ。
みんなが立派な大人になっているのに、私はノラリクラリです。


今週末は引っ越しであります。


引っ越しは迷ったけど、今でも迷いはあるけど、
借りぐらし用のマンション(家具家電付き)の家賃が高すぎるので、
普通のマンションに移り、色々買い揃えてきます。

モノを増やすと、それに縛られる感じがして、嫌だなと思うんですけど。

もし将来東京に居たくなくなって要らなくなったとき、
大量のモノを捨てるなり売るなりする手間やお金のこととか、
今回家を借りるのにフリーランスの身として審査に結構苦労したこととか、
そういうのがいつか、移動することを躊躇する言い訳になるんじゃないか。

そして何より、
どうしたって「自分の」モノが溜まっていくことは、愛着が生まれていくこと、計り知れない量のキャッシュが知らず知らず溜まっていくことであって、そういう縛られた感覚が最近は怖いです。


最近停滞したり、迷ったり、しているばっかりな気がして。
突破口はどこにあるのだろう。

NYの街に、VISAをとって初めて降り立った時のような、
希望と不安でものすごくドキドキする、そういう舞台に私は立っていたい。
新鮮な空気を吸えた時の嬉しさを忘れたくない。
それは日本でも出来ることかもしれない、でもなんだか。。
知らない間にいろんなものが溜まってドロドロしてく。


デザインを考える時と同じで、
モノを減らしてシンプルに、使わないのに置いてあるものは極限に減らしたい。
モノには必要以上の意味をもたせたくない。ブランドに頼りたくない。
日々考えることをシンプルにして、本当に考えなくちゃいけないことを考えたい。
足りないものがあるっていうのは幸せなことだと感じたい。
オシャレな生活で心を満たしたいっていうのとはちょっと違う。

自分の部屋のデザイン、生き方のデザインには、クライアントは居ないわけだし。
(予算はありますが。)

そう、デザイナーにとって一番大切なことはクライアントの内なる声をちゃんと聞き取ること。
自分の生活スペースをデザインすることで、自分自身の内なる声を、聞いてみたい。
デザインしていくうちにわかることもあるかもしれない。


決定打に欠ける、この流れが変わっていきますように。
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新政権

私は日本人で(アメリカ人でなく)、自由にアメリカに出入りしたい人間なので、
トランプ新政権において反グローバリズム政策がとられる(であろう)ことは、痛手である。同じような理由で、多くの日本人にとって、トランプは支持できないことが多い。

でも、だからと言って、トランプが「悪い」というのはちょっと違う。

それはあくまで、自分のスタンス(立場)とメリットの上に成り立っていることを忘れてはいけない。
日本の多くの人やメディアが、グローバリズムを唱えながらも、自分と違う立ち位置、価値観の人間の考え方を多面的・根本的に理解しようとしないこと、伝えないこと、そもそも存在すら知らないことは、矛盾の中にあるし、とても浅はかだと思う。

貧乏でバカな白人が支持するトランプごときに、クリントンは負けるわけないじゃんと当たり前に言い、自分たちがマジョリティだと信じ込んで、それが正義だと思っていた(今も思ってる)。

それはグローバリズムの歩む道として正しいだろうか?

トランプの唱える差別主義的な考え方と、根本では繋がるんじゃなかろうか?


アメリカは大きな国で、州ごとの政治力が強い。
日本人のよく行く海岸沿いの都市部はアメリカのただの一部である。
内陸に住む多くのアメリカ人は、自分の住んでる地域から一生出ないことも珍しくなく、アメリカが世界の覇権国であり続けると未だに疑いはないし、英語以外の言葉を喋る必要も欲求もない。日本なんてどこにあるのかすら知らない。キリストを信じ、堅実に生きる。

そして彼らは、自分たちが社会で、そのスタンス(立場)を理解されないままバカにされ、虐げられていることを知っている。


彼らの信じるこの世界の正義と、私たち日本人の信じる世界の正義が、一致することなんてない。

もっと言えば、いくらグローバル化が進みネット社会が深まっても、この世界には無限に存在する価値観は、それぞれが根本的にくい違っていて、共感どころか認知しあうことさえ困難である。
そして自分の価値観は、別にこの世界においてマジョリティでも正義でもなんでもないのだ。バカにされて虐げられることは、誰にでも起こりうる。


最初に言ったように、私は日本人だし、自由にアメリカと日本を行き来をしたい人間として、アーティストとして、トランプが言うことには全く賛同できない。過激な発言で世間の注目を集める方法も下品だと思う。

ただこの考えは、日本のマジョリティな考え方としても、
それはアメリカではマジョリティでなかったと、
超大国アメリカで、民主主義に則った選挙で決まったのだ。

自分たちの正義を信じ、その結果自分以外の人たちの立場を真摯にイメージするという行為を疎かにしたせいで、その人たちを馬鹿にしてるうちに足元をすくわれ、結果私たちはトランプを勝たせたということを理解するべきだ。

トランプの言うことやその影響は恐ろしいことではあるけれど、その恐ろしさを演出するだけの、最近のメディアの仕事は仕事じゃない。単純なショータイム的な演出にあるニュースが多すぎる。これじゃトランプのやり方に乗っかってるだけでむしろ協力してるようなもんだ。


トランプは就任演説で、

We will seek friendship and goodwill with the nations of the world ; but we do so with the understanding that it is the right of all nations to put their own interests first.

We do not seek to impose our way of life on anyone, but rather to let it shine as an example for everyone to follow.

我々は世界の国々との友好と親善を求める。しかしこれは、すべての国家は自国の利益を優先させる権利を持つという理解があってのことである。

我々は我々の生き方を誰にも無理強いするつもりはない。それよりもむしろ、皆の習うべき手本となるべく、我々の生き方の輝かしさを示そう。


と言った。

彼の言うことの本質だと思う。


なぜトランプが勝つのかと言うことを、支持者側の立場を多面的に知る必要があるし(「バカな」ブルーカラーの白人の支持だけで勝ったとは思えない)、
私たちの行動がトランプの政治とどう繋がってきたのか、自分たちの日常において何を考えるべきかを本質的に語るべきだと思う。

民主主義とは何か?ってことは、そんなに単純じゃないって、誠実に理解し伝えようとする人たちはどこにいるんだ。


多様化し流動的なこの社会は、
どちら側が正しく、どちら側が悪いか、
どちら側がマジョリティで、どちら側がマイノリティか、
ということが常に曖昧であって、
一つの立場に固執する陰謀論者は、そのうち滅びると私は信じたい。
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2017年の抱負

NYから東京に帰ってきてもう2年経とうとしてる今、変に引きずるのは良くないと思いつつ、東京が好きだし遊んでくれる友達も大好きなのに、いつも何か足りないような気もしている。
NYにはもっと足りないものいっぱいあったけどね。

欲張りかもしれないが、まだまだ安定はしたくなく、自分がカッコイイと思えるスタイルをずっと探していたいし、人から尊敬される存在になりたいし、かといって毎日「お金がない」「寂しい」と思いながら生活するのはもう嫌だし、いい歳なのにと言われるのもムカつくし。かといって最近はちょいちょい体調が急降下するし、余裕をもったバランス感覚が大切だ。


2017年の抱負は
・整理整頓
・展覧会の企画書を年内に2本通す
です。

効率的に、結果にコミットする的なやつですかね。

説教くさくない説得力のある人間になりたいなあ。

がんばろー。


(最近は日々思うことはtwitterに都度出しちゃうので、blogがすっかり疎かです。。)
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