HIKINO MAHO--blog




 
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堀尾貞治さんとのこと

偉大なアーティスト、私の尊敬する人のひとり、堀尾貞治さんが永眠されました。

ご家族や親交の深かった方々のご心痛、お察しするにも余りあるものと思います。

お別れに行けず、心から残念です。

突然の訃報で、思いを整理することができません。

ここに私と堀尾さんとの思い出を書かせてください。


____


2007年に大阪の靱公園近くにあったAD&Aギャラリーで、初めての個展をさせていただいた。その展示に、堀尾貞治さんがフラッと立ち寄ってくださった。恥ずかしながらその時の私は、その人が堀尾貞治さんだということおろか、堀尾貞治という名前すらも知らなかった。

初めての個展といっても、当時私は大学4年生、それまでの展示は校内や学校関連のイベントでやったものばかりで、まだアーティストとも名乗れなかったし、本当に駆け出しだった。


展示した作品は『Drawing Piano』、会場にアップライトピアノを置き、観客が弾いたピアノの音に反応して映像を流れるという、インタラクティブなインスタレーションだった。展示内容からしても、私の知名度ゼロからしても、ギャラリーの客層からしても、知り合い以外で年配の方が立ち寄ってくださること自体とても珍しかったので、不躾ながら、堀尾さんに「よく展示を見に来られるんですか?」などと話しかけた。

堀尾さんはそんな私にムッとするでも偉ぶるでもなく、自分も作品を作っていて、年に100回くらい展覧会をするんですと言って次の展示の案内ハガキを下さった。

それから私の、きっと意味不明な作品解説に丁寧に耳を傾けてくださり、ピアノを鳴らして、映像に歓声をあげてくださった。その楽しそうな表情は、今もよく覚えています。


後日堀尾さんから、会場の様子の絵と「(作品に)とても驚きました」という言葉を書いたハガキが届き、すごくすごく嬉しくて、そのあと数回はがきのやりとりをした。でもその時も、堀尾貞治がどういうアーティストであるかということは分かっていなかった。単純に励みをくれる存在だった。


その半年後に私は進学で上京し、その後東京で就職したのち、制作のためにNYに渡米したので、堀尾さんとは徐々に疎遠になってしまった。



話は少し戻って、2006年(堀尾さんと出会う1年前)に、東京の近代美術館で吉原治良の絵画に出会い、私は初めて、絵を見て泣く、という体験をした。当時20歳の私にとって、それは「雷に打たれたような」衝撃だった。

これまで、子供の頃から感じてきた、常に満たされない鬱々とした思いが、自由になりたいという渇望であったこと、それは私だけが感じていたものではないということ、その叫びを絵で表現できる人がいるということ。

今日の私を、最初にこの道にいざなったのは、具体の、吉原治良の絵画だった。




私がNYに住んでいた2013年に、グッゲンハイム美術館で「GUTAI」の大きな展覧会が開かれた。NYでアーティストとして試行錯誤する中で、道を失いかけていた私にとっては、私のルーツとも言える「GUTAI」の展覧会が、このタイミングでNYで行われることは、運命的なものに感じられた。

そしてそこには「Sadaharu Horio」の名前があった。



2015年に日本に帰ってきて、私の地元の兵庫県川西市で行われるアートビエンナーレに参加することになった。関西での展示は、前述の2007年の初個展以来、8年ぶりだった。

そのとき知り合った友井隆之さんの忘年会に呼んでいただき、その忘年会場になんと堀尾さんがいらっしゃった。実は友井さんは、堀尾さんと活動を共にする親交の深い方だった。

まさかこんな形で、堀尾さんとの縁がまた繋がってくれるとは思ってもみなかった。これまでやってきたことが、一本の線でスッと結ばれていくような、不思議な感じがした。

私は何も持っていないように思っていたけど、最初から恵まれていたことを知った。



翌年2016年に兵庫県立美術館で展覧会を行うこととなり、堀尾さんにダメ元で、でも大きな期待を込めて案内を差し上げた。堀尾さんは、翌日から展示のためにドイツ行きというハードスケジュールの中、会場に来てくださって、最後に「面白い展示でした」と強い握手をしてくださった。




最後にやりとりができたのは、今年の6月に東京都美術館で展示をする際、遠方なのでいらっしゃれないことは承知の上で、でも私がこの展示をできることの感謝を申し上げたくて、手紙と展覧会チラシを送った。

堀尾さんが、私の話を聞いてくれたこと、驚いて・喜んで・面白がってくれたこと、私の作品の絵をハガキに描いてくれたこと、そして堀尾さん自身もずっと作品に挑戦し続けている存在であること、それがどんなに励みになったか。そうして、ここまでこれましたと、お伝えしたかった。

手紙を出してすぐに、堀尾さんは2006年の時と同じように、私の作品を描いた絵ハガキで返信をくださった。「どんどんオモシロイことをやって下さい」「又どこかで」と書いてあった。



直接お話しできた機会は少なかったけれど、それでも私にとって堀尾さんは、唯一無二の存在でした。

アートというものが信じられなくなるとき、自分に自信がなくなったとき、疲れ切ってヘコたれてしまいそうになるとき、ニコニコ笑って面白がってくれた姿、誰よりもパワフルに発表を続ける姿に、勇気をもらってきました。

堀尾貞治さんとその作品は、強くて優しくて、自由で、とにかくカッコいい。


まだ思いを整理することはできません。

ただただ、堀尾さんからこれまでいただいたモノたちへの感謝と、心からの哀悼の意を表します。



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先月東京都美術館での展示が終わり、粛々と記録を纏めたり色々整理しています。
まだ全然終わる気配がないけれど。。

企画書や報告書や、なんやらかんやら、
作品や活動のことを客観的に整理して、伝えることは、
作品を発表する時はまた違う意味で、スキルが試されるし根気が入ります。
水面下でも、とにかくとにかく、続けていなかくてはいけない。
会期直前や会期中はもちろん気が張っていますが、
年に1、2回のペースで展覧会をやってる自分としては、実際のところ、それ以外の時間の方が長いし
ここに熱量をもって続けられるかどうかが、本当の意味でアーティスト活動の肝かなと思います。
人それぞれやり方はあると思いますが。

最近は、この後どうしようか、グルグルと考えています。
東京に戻ってきて3年が経ち、東京都美術館で大きな展覧会もやらせていただくことができ、
そしてプライベートの面で感じさせられることが色々と起きたので、
次のステップに進むタイミングをピリピリと感じています。

近年はロジカルに考えて打算的にやっていくことをずっと試していて、
色々と感じたことや考えたこと、経験できたこと、出来なかったことがありました。
今はそれを一旦横に置いて、もう少し個人的な方向に戻ってもいいかなと思っていますが、
それがどう作品や活動に繋げられるかはまだ見えてません。



私のwebサイトに書いているステイトメントを、
また前のものに戻したくなったので、戻して、
http://www.hikino-maho.com/about.html
今まで載せいていたものをここに置いておきます。


私の制作において

同じ色は、二度と出ない
同じ形も、二度と創れない
同じ過程も、二度と通過しない

In response to the question "How do you know when you're finished?",
Pollock replied "How do you know when you're finished making love?"
Jackson Pollock

作品の完成は
エクスタシーの頂点

美しいものを探していると、
私の想定を越えたものが、
奥の方から突然滲み出てきて
私は肯定される

私は美しいものを創ることは出来ないかもしれない
でも美しいものは勝手にそこらかしこに
生まれてきて消えていくものだから
私自身が創造者にならなくたっていいんだ
いつも見ている世界をもう一度なぞっているだけ
美しいものが見たいという気持ちに
妥協をしなければ 作品は勝手に完成する

ただし一切妥協しない
最高のエクスタシーじゃなきゃ、それは「違う」
私が得たいのは、それじゃなきゃいけなかったという確信
作品とか作ったり。 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

2018年 展示のお知らせ

2018年は、私が主催するアーティストコレクティブART BEASITESで、2回の展覧会があります。

"IN THE SHADOW OF OLMPUS"
2018年3月1日(木)- 31日(木)
Opening Reception March 1st, 6-8pm
at SOIL Gallery (Seattle)
http://artbeasties.com/next-event-info/

私も今月末から10日間ほど渡米します。
「東京オリンピック」という、私個人ではとても考えないようなテーマの中で、作品のプランや意図を考えるのはとても難しいことでしたが、考え抜いていくうちに、それが自分の問題に帰着してストンと落ちてくる感覚はとても新鮮で、グループの面白さを感じました。


都美セレクション グループ展2018
"蝶の羽ばたき Time Difference 時差 vol.3 New York-Seattle-London-Tokyo"
2018年6月9日(土)- 7月1日(日)
at 東京都美術館 Tokyo Metropolitan Art Museum
http://www.tobikan.jp/information/20171019_1.html

2年前にも挑戦してダメだった「都美セレクション グループ展」のコンペに再挑戦し、
展示の機会をいただくことができました。
決まった時は本当に嬉しかったなあ。
詳細はまたお知らせします。


ART BEASITESは運営4年になり、グループも、私自身も大きく成長してきました。
もちろん言い出したらきりがないほど問題点もいつも山積みですが、
元々私がやりたかったこと、そして今私がやらなければいけないことを、1番に考えていきたいと、最近改めて考えています。

グループ運営の能力が私にあるのかどうか分かりません。
いつも必死になりすぎてそればっかりに頭の中を支配されそうになりますが、
自分が本当にしたい表現が、何かに突き動かされるように形になっていくことは「最高の」興奮です。
本展が私にとって「最高の」展示になるよう、制作自体を大事にする一年にしたいです。
作品公開情報など。 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

西加奈子「ふくわらい」

西加奈子の「ふくわらい」を読んだ。

西加奈子の作品は以前「窓の魚」を読んだことがある。
変にハイテンションな小説が苦手で、あと飾り付けた文体も苦手なので、
西加奈子を読んでみたいと思って本屋に行って、シンプルそうで暗そうなやつを選んだ結果の「窓の魚」。
展開が面白くて読みやすく、印象も強く残って、スゴい力のある作家だなと思ったけど、
私の趣味として、やはり少しうるさいというか、演出が過ぎる印象というか。。
うまく言えないのだけど。
嫌いではないけど大好きでもないという感じ。
で、そんな印象からあまり期待せずに読み出した「ふくわらい」、


抜群だった。

はっきりと説明できない感情が、いい塩梅に残って、
図書館で借りて読んだのだけど、買って手元に置いておきたいと思っている。
久々に面白い小説を読んだと思った。


一度読んだ後、キーになるシーンを読み返して咀嚼した。
「ああこれは、自我の発見の象徴なのだな」とか、
自分の中で言葉にまとめて納得しようとした。
言葉にできない何かがたくさん残ったので、それをクリアにしようと思った。
けど。
そんなことをしながら、ふと思い返した。


私は国語の授業で教えてもらう、小説の読み取り方、
例えば「なぜ主人公はこう思ったか」ということを先生主導のもと紐解き、
学期末にテストされるというのが、子どもの頃、とても嫌いで、母に苦情を言ったことがある。

そこに正解なんて無いはずなのに、おかしい、と。

確かに、今思えば、
文章から登場人物や筆者の気持ちを読み解く訓練は必要で、
それは本を読むということに限らず、社会生活の上でもとても大切な授業だったのだけど。

でも私は、
小説の一部分から「なぜ主人公はこう思ったか」に正解しようとする時、
それを自分の言葉に簡潔にまとめていく中に、
本来小説の中あったはずの、とても繊細で、もっとも大切な物語が、時間が、抜け落ちてしまう感覚があって、
とても嫌だったのだ。

本が好きだった自分は、そんな「正解」を考えずに、
ただ本の中にある世界に没頭していたかった。
そこには正解とか、意味すらなくて、他者との時間と空間の共有の中で、
自分がいる景色が、自分自身さえ全く違うものになっていく感覚が好きだった。
日常と違って、誰かに、何かを求められたり、制約されたりしない。


国語の授業で「正解」を中心に考える時、求められるのは文章を客観的に読み解き、簡潔に正解を述べる力。
その訓練を重ねていく中で、私は失っていく気がした。
作家の意図、文章を読み解く技術、皆と同じ回答を出さなければいけない空気、そういう意識をもってしまう自分、作家の名前、その人が著名な人であること、なんにも知らないで、ただ目の前の文字に没頭する、そういう風に本を読んでいたかった。

国語の授業の中で訓練を繰り返していくと、どうしようもなく、
もう知らなかった自分には戻れなくなっていく。
無知を恥じず物語に没頭できた自分はいなくなる。
その感覚が悲しかった。


西加奈子が「ふくわらい」の中で、長い時間をかけて丁寧につむいだ世界を、
「自我の発見の象徴」だ、なんて納得してしまうことは、悲しい。
物語の中で感じていた空気や時間に、意味をもたせてしまうことは虚しい。

物語が大好きで、大切にしていた自分を思い出して、
途中で「解説」を考えるのをやめた。

まだ完全に自分の中で、「ふくわらい」の解釈は落ち着いていないので、
この本がくれた興奮は、しばらく私の生活を支配すると思う。
なんども思い返しながら自分のものにしていきたい。
安易な言葉に決着させようとしないで。



正直に言って、
私はアート作品をみて、
小説みたいに、自我を失うほど没頭できる世界に出会ったことはない。


私が、映像を作ったり見たりする中で、
それが語る表面上のストーリー(物語)はどうでもよいと思っている。
文字の力には、敵わないからだ。
ストーリーを説明することに終始したいのなら、文字で書けばいい。
文字というものは、何もないところからストーリーを作り、そのうえ無限の時間や空間を作り出す、不可解なくらいに素晴らしい力がある。
映像がもつ力はそれじゃない。

そして、
私が作る作品のコンセプト(意味)は、
理解してもらえなくても、全然構わない。
空間と時間の共有さえできたら。

もちろんコンセプトの説明を求められれば、するし、そういう局面は多い。
仕方なくやっているというのでなく、
客観的に自分の作品を観察するためにも、
言葉で簡潔に説明することも、アーティストにとって大切な作業だからやっていく。
これからもこういう作業に、作品を作る以上の、たくさん時間を割かなくてはいけないだろう。


でも一方で、
私は感覚的な共有を一番大切にしていたい。
というか、そういう興奮が出発点にある。
その純粋な感覚を忘れてしまわないだろうか。

「正解」の説明ばかり考えていると、
言葉尻を合わせて、たとえ相手を上手に納得させられても、
結局、私自身もそれに引きずられて、本質が全然見えなくなっていく。
言葉にできないものは、驚くくらいに忘れていく。


「ふくわらい」を読んで、
すごく大切な、純粋な感覚を思い出すことができて、よかった。
つまり私は本が、物語が大好きなんだった!


奇しくも、「ふくわらい」を読む少し前に、
自分が中学生の時に書いていた、絵本向けの物語をふと思い返していた。
その他にも昔、いくつかの物語を書いた。
誰かのまねごとのようなお話で大したものではなかったけれど、思い入れだけあった。
また、何か書こうかなと思っている。
今ならもっと書ける気がする。
最近やりたいことがたくさん出てきて困る。



ちなみに「ふくわらい」を図書館で借りたとき、一緒に、
ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」と
ハイデガー「存在と時間」を借りた。
実は「ふくわらい」はこの二冊を読むのが辛くなったときの、息抜き用(おまけ)。

「ツァラトゥストラかく語りき」は、はっきり言って全然趣味じゃなくて読むのが苦痛だった。全体的に言いたいことの表面をなぞることや、部分的にオッと思うことはできるけど、宗教観とかジェンダーの価値観とか時代とか、そもそも言語が違う(詩が多用されている)中で、あれが感覚的に本質的に理解できる日本人っているのかなって、疑問。

ハイデガーの方が面白そうなので期待。
ただし私には難解すぎて読むのに時間が掛かる上に、上下巻あるので、とても大変な予感。
まだ20ページも進んでない。
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もう一回

先週末は大学のサークル同回だった友達の結婚パーティーで、岡山に行きました。
岡山にはこの前の秋にも行ったのですが、本当にいい街です。
なにがあるわけではないけど、本当にいい街。
少し早めに着いたので、朝からひとりで後楽園を散歩しました。

そして結局集合時間に遅刻スレスレ、久々に会う同回の前に猛ダッシュ後の汗だくの姿で現れる、相変わらずさ。
みんなが立派な大人になっているのに、私はノラリクラリです。


今週末は引っ越しであります。


引っ越しは迷ったけど、今でも迷いはあるけど、
借りぐらし用のマンション(家具家電付き)の家賃が高すぎるので、
普通のマンションに移り、色々買い揃えてきます。

モノを増やすと、それに縛られる感じがして、嫌だなと思うんですけど。

もし将来東京に居たくなくなって要らなくなったとき、
大量のモノを捨てるなり売るなりする手間やお金のこととか、
今回家を借りるのにフリーランスの身として審査に結構苦労したこととか、
そういうのがいつか、移動することを躊躇する言い訳になるんじゃないか。

そして何より、
どうしたって「自分の」モノが溜まっていくことは、愛着が生まれていくこと、計り知れない量のキャッシュが知らず知らず溜まっていくことであって、そういう縛られた感覚が最近は怖いです。


最近停滞したり、迷ったり、しているばっかりな気がして。
突破口はどこにあるのだろう。

NYの街に、VISAをとって初めて降り立った時のような、
希望と不安でものすごくドキドキする、そういう舞台に私は立っていたい。
新鮮な空気を吸えた時の嬉しさを忘れたくない。
それは日本でも出来ることかもしれない、でもなんだか。。
知らない間にいろんなものが溜まってドロドロしてく。


デザインを考える時と同じで、
モノを減らしてシンプルに、使わないのに置いてあるものは極限に減らしたい。
モノには必要以上の意味をもたせたくない。ブランドに頼りたくない。
日々考えることをシンプルにして、本当に考えなくちゃいけないことを考えたい。
足りないものがあるっていうのは幸せなことだと感じたい。
オシャレな生活で心を満たしたいっていうのとはちょっと違う。

自分の部屋のデザイン、生き方のデザインには、クライアントは居ないわけだし。
(予算はありますが。)

そう、デザイナーにとって一番大切なことはクライアントの内なる声をちゃんと聞き取ること。
自分の生活スペースをデザインすることで、自分自身の内なる声を、聞いてみたい。
デザインしていくうちにわかることもあるかもしれない。


決定打に欠ける、この流れが変わっていきますように。
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